還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、
ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。
写真取材 赤木 賢二

御 名 厩 戸 皇 子(うまやとおうじ)
諡 号 聖徳太子
生没年 敏達天皇三年(五七四年)~ 推古天皇三〇年(六二二年)
時 代 古墳時代後期~飛鳥時代
続 柄 三一代・用明天皇(父) 三三代・推古天皇(叔母)
御 名 穴 穂 部 間 人 皇 后(あなほべのはしひと)
生没年 生年不詳~ 推古天皇二九年(六二一年)
続 柄 三一代・用明天皇(配偶者) 二九代・欽明天皇(父)
墓 名 磯長墓(合葬墓)
陵 形 円墳
所在地 大阪府南河内郡太子町大字太子(叡福寺境内)
最寄駅 近鉄長野線「喜志」下車、四市町村コミバス(近鉄バス)にて「聖徳太子 御廟前」バス停下車、徒歩約三分。
穴穂部間人皇后・聖徳太子親子の伝説を追いかけて京丹後へ
飛鳥時代に起きた内乱「丁未の乱(ていびのらん)」は、仏教の仏拝を巡り「大臣・蘇我馬子」と「大連・物部守屋」対立し大和(飛鳥)で起こった争乱。その争乱を避けるため、穴穂部間人皇后・聖徳太子母子は大和を離れ、当時の丹後国「大浜の里」(現在の京丹後市)と呼ばれていた地に身を寄せた。
争乱が治まり大和の国へ帰るとき、皇后は『この地を間人(はしひと)村と名付けよ』とお言葉を言い残した。民たちは畏れ多いと思い、「皇后が退座された」また「滞座されていた」ことで「間人」を「たいざ」と読むようになったと伝わる。ただし、『日本書紀』『古事記』などの文献には穴穂部間人皇后・聖徳太子母子が丹後国に在住した記述はない。






奇岩「立岩」にも伝説が残っている、聖徳太子の異母弟・麻呂子親王が、三匹の鬼を退治し、この岩に閉じ込めたという言い伝えが。鬼の洗濯岩が縦を向いたような感じだった。

せっかくここまで訪ねてきたのだから、もう少し探索をすることにする、観光気分で(笑)。

