還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、
ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。
写真取材 赤木 賢二

御 名 慶 頼 王(よしよりおう)
生没年 延喜二一年(921年)~ 延長三年(925年)
時 代 平安時代・初期
続 柄 六〇代・醍醐天皇(祖父)
墓 名 慶頼王墓
墓 形 円墳
所在地 京都府京都市左京区吉田牛ノ宮町五
最寄駅 京阪本線「出町柳」より約一〇〇〇m、徒歩約一五分。
「慶頼王」は「六〇代・醍醐天皇」の皇太子であった「保明親王」の第一皇子。母は時の権力者「藤原時平」の娘「仁善子」。
父「皇太子・保明親王」の薨御に伴い、「慶頼王」は三歳で「醍醐天皇」の皇太子(皇太孫)に立てられた。その背景には、「保明親王」と「慶頼王」親子共々の母方の実家「藤原時平(時平流)」の一族による強い意向、外戚としての権力を維持したい思惑があったとされている。だが、「慶頼王」は立太子からわずか二年後の五歳で夭逝された。朝廷、内裏では『父子の相次ぐ急死』に、『藤原時平」が大宰府へ左遷した「菅原道真」の祟りが障ったのだ』と噂された。
祟りを恐れた「醍醐天皇」により「菅原道真」の罪を許され、「藤原時平」の流れを汲まない「慶頼王」の叔父「寛明親王(醍醐天皇の第一一皇子)」三歳が皇太子に立ち、その後「六一代・朱雀天皇」に即位した。
この「保明親王」「慶頼王」親子の薨御によって、権力は「藤原時平(時平流)」から弟「藤原忠平(忠平流)」の系統になり、朝廷の主導権を握るようになった。栄華を極めた「藤原時平(時平流)」の系統は斜陽の一途を辿ることになる。
五歳で夭逝された廃太子「慶頼王」の墓は、京都市左京区吉田牛ノ宮町の住宅街に囲まれ所在する円墳に治定されている。








