還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、
ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。
写真取材 赤木 賢二

御 名 恒 貞 親 王(つねさだしんのう)
生没年 天長二年(825年)~ 元慶八年(882年)
時 代 平安時代・初期
続 柄 五三代・淳和天皇(父)
墓 名 恒貞親王墓 (入道塚陵墓参考地)
墓 形 円墳または方墳
所在地 恒貞親王入道塚陵墓参考地 京都府京都市右京区嵯峨大沢柳井手町二四
最寄駅 JR山陰本線「嵯峨嵐山」より約九〇〇m、徒歩約一五分。
政争に巻き込まれないように生きようとした廃太子
「恒貞親王」は「五三代・淳和天皇」と「皇后・正子内親王」の第一子として誕生する。異母兄弟に兄の・恒世親王がいたが、皇太子に立てられたその日に辞退した。その日に「嵯峨上皇(五二代・嵯峨天皇)」の皇子「正良親王(五四代・仁明天皇)」が立太子した。異母兄の「恒世親王」が天長三年に没したのちには、「淳和天皇」の後継者と見なされるようになった。
天長十年に「五四代・仁明天皇」が即位、同時に「嵯峨上皇」の叡慮により「恒貞親王」は立太子された。その後、権力闘争に巻き込まれる事を憂慮して、父の「淳和上皇(五三代・淳和天皇)」と「恒貞親王」自らも、皇太子の辞退を申し入れたが聞き入れなかった。
しかし「嵯峨上皇」崩御まもなく、「恒貞親王」を奉じた謀反計画が発覚した「承和の変」が発生するも、皇太子には罪はないものとされた。だが、「恒貞親王」と「承和の変」は無関係とされたものの、責任を問われて皇太子を廃位された。その後、出家して「恒寂」と号し「嵯峨大覚寺」の初祖となった。
その御墓は、「大覚寺古墳群」のひとつ「入道塚古墳」が陵墓参考地となっている。










