第七七回 九二代 伏見天皇陵

還暦前、写真家の「写して候・寄って候」
天皇御陵踏破の旅
鎌倉時代 八二代〜九五代天皇陵

五十路もなかばの頃、ふと考えた。
日本国とは何なのか、日本人とは何なのか。
その答えを探す為に、2600年を遡る時空の旅へ出た。
イデオロギーなど関係無い、ただ、今そこに残る時間の集積を写してみたい。

写真取材 赤木 賢二
 
 

深草北陵(伏見天皇陵)

伏見天皇陵

九二代/伏 見(ふしみ)天皇陵
諱/熈仁 ひろひと
在位年/西暦一二八七~一二九八年
陵形/方形堂
皇居/平安京 

所在地 深草北陵 京都府京都市伏見区深草坊町 
最寄駅 JR奈良線「稲荷」下車、約1300m、徒歩約18分。

 92代・伏見天皇は89代・後深草天皇の第二皇子。伏見天皇は「持明院統(北朝)」の父・後深草上皇(89代天皇)の働きかけにより、「大覚寺統(南朝)」の亀山上皇(90代天皇)の猶子となり親王を宣下し、その後に91代・後宇多天皇の皇太子になった。1287年(弘安10年)には、後宇多天皇の譲位により即位した。後深草上皇(89代天皇)は2年余りで院政から退き、実子の92代・伏見天皇の親政が始まる。

 これ以後、「大覚寺統(南朝)」と「持明院統(北朝)」が交代で天皇を出していくことになる。

だが、92代・伏見天皇は自分の皇子(93代・後伏見天皇)を皇太子に立てたため、「大覚寺統(南朝)」との間の確執が深まっていく。その後、宮中で「伏見天皇暗殺未遂事件」が起きた、事件の黒幕には亀山上皇(90代天皇)がいるとも噂された。

 御陵は「持明院統(北朝)」の歴代が葬られている「深草北陵」。
 
 

稲荷駅から深草北陵

伏見殿跡周辺

<北朝二代・光明天皇陵 北朝三代・崇光天皇陵>

伏見天皇陵
伏見指月城跡
多くの上皇が院政を引いた宮殿があった伏見、今はその一画に公団が建っている。
道には安土桃山時代の「伏見指月城跡」の案内板がる、その中で少しだけ「伏見殿」のことが触れられている。
伏見指月城跡
来た道をJR奈良線「桃山」方面に戻り、線路沿いを歩けば「北朝」の天皇の御陵が見えてくる。
伏見指月城跡
御陵側は曇天、振り向けば青空が見える・・・よくあることだ、日々の行いが悪いのか(苦笑)。
持明院統
持明院統
拝所までの参道は100m以上ある、さすがは今上陛下に続く「持明院統(北朝)」の天皇御陵が。
北朝二代・光明天皇陵
左手の石碑に「北朝二代・光明天皇陵」、右手の石碑は「北朝三代・崇光天皇陵」。
伏見殿跡
おまけだが、JRの線路を挟んでこの辺りまでも「伏見殿跡」なのだろう、宮内庁の立て看板がある。
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